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特殊事情の場合

番付編成後から発表までの間に、通常の引退以外の事情で力士が力士でなくなった場合は番付を再編成せず、その力士がいた地位を空位にすることとなっている。

一番多い事例は、力士が死亡した場合である。例えば、1971年10月に急死した横綱玉の海の場合は11月場所番付で西横綱を空位にしている。ただし、残った横綱が東横綱の北の富士一人のみであったため形式上は不自然な番付にはならず、一般的には空位の事例として考えられていない。また、1990年(平成2年)2月に急死した龍興山の場合は1月場所が新入幕で勝ち越しており、翌3月場所が龍興山の地元である大阪での場所を自己最高位で迎える予定であったため「四股名だけでも故郷に錦を飾らせたい」という配慮により番付に四股名が残された。

2007年11月場所の番付で西前頭11枚目が空位となった。場所の直前(番付編成後)に時津海が引退して年寄時津風を襲名して時津風として番付に載ることとなり、番付上の重複を避けるために空位とした。これは幕内では1873年11月場所に、高砂浦五郎とそのグループ(改正組)を除名したとき以来(前述のケースを除いて)で134年ぶりだった。また、2008年9月場所の番付では、7月場所後の番付編成で東前頭8枚目に据えられた若ノ鵬が8月21日付で解雇されたため同地位が空位となった。高砂除名組のときは該当者が墨で塗りつぶされたが、時津海、若ノ鵬の際には空白となった。なお同年9月8日付で解雇された露鵬・白露山の2力士は番付発表後の解雇だったこともあり9月場所の番付には名前が残っている(ただし同年9月14日付の番付では空白となっている)。2009年3月場所の番付では若麒麟が2月2日付で解雇されたため、西十両筆頭が空位となった。

また、1976年(昭和51年)10月に朝日山部屋の相続をめぐっての騒動でトンガ王国出身の幕下以下の力士が廃業に追い込まれたときも、11月場所の番付では幕下以下のそれぞれの場所が空位とされた。1981年(昭和56年)9月場所番付において、東西の正横綱(北の湖、千代の富士)が「横綱大関」として番付上大関を兼務、純粋な大関不在の変則番付になったことがある。(後述。〈横綱大関〉の項目も参照)

2008年3月場所番付において心労を理由に休場した時津風部屋の3力士の番付が据え置かれることが1月26日の臨時理事会で承認され、1月30日の番付編成会議で正式決定された[2]。戦後公傷を除き全休力士の番付が据え置かれたことは無い[3]。この異例の判断に理事長の北の湖は「3力士とも(時津風部屋力士暴行死事件の)捜査に協力しているため、社会通念上決めた」と語った[4]。

エピソード [編集]

江戸時代 [編集]
1726年(享保11年)の番付に4代木村庄之助(史実としての初代とされる)の名前が見られる。ちなみに初代式守伊之助の名前は1767年(明和4年)の番付に見られる。
1767年3月場所、荒熊が西方幕内格番付外で出場(相撲番付の歴史上、宝暦以降では初めて)した。これ以降、幕内格番付外で出場した力士は1932年5月場所の出羽ヶ嶽までのべ70人がいる。この中には1859年(安政6年)1月場所の陣幕(12代横綱)、1882年(明治15年)1月場所の初代西ノ海(16代横綱)がいる。西ノ海はこの場所が新入幕だった。
1768年(明和5年)11月場所は番付を欠き(番付が未発見のため)、2大関(岩根山、大矢嶌?、2人とも看板大関)の他幕内10力士は地位が不明。
1794年(寛政6年)11月場所の番付で、当時6歳の大童山が怪童という触れ込みで、西方前頭に張り出された。これ以降、怪童で番付に載ったのは嘉永年間(1848?1854年)の鬼若、鬼勝、大童子。安政年間(1854?1860年)には柏嶽、大纒、舞鶴がいる。他に巨人力士として、1844年(天保15年)10月場所の生月、1863年(文久3年)11月場所の皆瀬川がおり、いずれも前頭に張り出されている。
1819年(文政2年)11月場所の番付より、それまで番付上段に書かれていた「東ノ方」「西ノ方」(または「東の方」「西の方」)が、「東」「西」とだけ書かれるようになった。
1863年7月場所、新関脇に昇進した陣幕(のち第12代横綱)は番付上では張出関脇となり、関脇の張出はこれが最初となった。ちなみに張出横綱(一人横綱の張出は除く)は1904年(明治37年)1月場所の大砲、張出大関は1890年5月場所の剣山、張出小結は1888年5月場所の嵐山、張出前頭は1793年(寛政5年)3月場所の関ノ戸がそれぞれ張出の最初である。

明治時代 [編集]
大坂相撲において1869年(明治2年)3月場所の番付は、横綱(番付上は大関)陣幕以下幕内が22人。そのうち新入幕が17人もおり、その中にはいきなり小結に据えられた初代梅ヶ谷(のち第15代横綱)がいた。
1882年6月場所より、成績に応じて番付を編成するようになった。
1900年(明治33年)1月場所で常陸山が新関脇に昇進以降、1959年(昭和34年)1月場所の横綱千代の山の引退まで、出羽海部屋(常陸山の当時は「出羽ノ海部屋」)は約60年間138場所の間番付上に役力士の四股名を欠かすことがなかった。
大坂相撲において1905年(明治38年)6月場所の番付で、前頭6枚目にい助治郎が新入幕。四股名が平仮名一字の「い」で、読み方は「かながしら」と呼ぶが、番付には「い助治郎」と書かれている。東京相撲で初めて「横綱」の文字が載った1890年(明治23年)5月場所の番付で、序ノ口西最下位にも「イ吉三」なる力士の四股名が載っている。1906年(明治39年)5月場所の番付では、前頭10枚目の白川寅太郎が、この場所5日目より四股名を「ステッセル」と改名している。「ステッセル」は場所中の改名だったため、この場所の番付には載らず、翌(場所の)1907年(明治40年)1月場所には、元の四股名「白川」に戻している(四股名#変わった四股名の項参照)。

大正時代 [編集]
1915年(大正4年)1月場所の番付は、西方のみに正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、現在にはない変則番付となった。同様の番付は翌1916年(大正5年)1月場所の太刀山(西方正横綱)、鳳(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された。また四大関(九州山、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱、2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている。1909年(明治42年)6月場所、旧両国国技館開館とともに始まった優勝制度および東西制であるが、特に東西制によって大正時代には変則番付が多くみられる。
大坂相撲において1917年1月場所、新大関昇進を果たした朝日松は、前年暮れにトラブルを起こし師匠から破門され、晴れ姿は幻に終わった。この場所の番付には西大関朝日松清治郎の箇所に、「朝日松清治郎ハ昨冬除名仕候」という張り紙がされた。朝日松は以前にも東京相撲において1913年(大正2年)5月場所初日、控え力士として物言いをつけたものの受け入れられず、相撲を取らずに退場し破門され大坂相撲に復帰したことがあった。朝日松は翌6月場所に復帰を許され、前頭筆頭格として番付外で出場し、その後関脇まで番付を上げたが、再び大関にはなれなかった。
1918年1月場所で、史上初めて横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱?2代西ノ海、鳳、大関?伊勢ノ濱、関脇?両國、小結?黒瀬川、前頭?鶴渡)が設けられた番付が発行された。
1918年1月場所、新関脇の九州山は4勝3敗2預1休(陰星があり実際は5勝)の平凡な成績ながら、栃木山の横綱昇進に伴い、東西制により東方大関が空位となったため、幸運にも翌5月場所新大関に昇進した。同場所、前頭東2枚目の大門岩は5勝3敗1預の成績を残しながら翌場所は同地位。ここで7勝3敗と大勝ちしたものの翌場所も筆頭止まり。その後1922年(大正11年)1月場所には関脇に昇進して5勝4敗1分と勝ち越したが、翌場所小結に落とされるなど番付運には恵まれなかった。また藤ノ川は1919年(大正8年)1月場所、大門岩と同じ前頭2枚目で横綱大錦、大関九州山を破ったが、5勝5敗と5分の成績ながら上位が不振だったため、幸運にも翌場所関脇に昇進。東西制によって番付運で大きく明暗を分けた。
大坂相撲において1923年(大正12年)5月場所前、「龍神事件」と呼ばれる大紛擾が起こり、幕下以下の力士らにて興行。紛争は大もめとなり、上州山と大木戸の両大関をはじめ多数の廃業力士が出た(幕内だけで20人の廃業、のち3人が復帰)。よって同年6月場所の番付は横綱宮城山をはじめ残留力士(幕内は横綱以下、関脇、小結が各1人、平幕13人の計16人)によって番付が改訂され幕内のみ片番付で興行した。
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1924年(大正13年)5月場所、先(1月)場所優勝した栃木山は西の正横綱であったが、この場所の番付は東の張出横綱となった。東西制だったので東西が入れ替わって、西の正横綱は3代西ノ海、東の正横綱は新横綱の常ノ花で、優勝した栃木山が張出となった。この場所10勝1敗で8回目の優勝、翌1925年(大正14年)1月場所も同地位で10勝1分で9回目の優勝を3連覇で飾ったが、番付上では最後の場所となった翌同年5月場所は西の張出横綱であった。一説には1923年の関東大震災による両国国技館焼失の際、常ノ花後援会から多額の再建資金が寄付されたことに報いるためだったともされる。栃木山をなだめるため、彼の名は東西正横綱の常ノ花、3代西ノ海よりこころもち太く書き出され、「別格横綱」の意味合いが与えられたが、3連覇後の突然の引退表明には、これらの処置への不満があったのではないかとも言われている。
1924年5月場所、前頭5枚目の射水川は横綱栃木山、大関大ノ里を破り6勝5敗と勝ち越し、翌場所小結に昇進。この場所も勝ち越したが、場所後の花相撲を休んで贔屓筋主催の余興相撲を取ったことが発覚し、翌場所前頭筆頭に落とされ、この場所負け越し。以後2場所全休ののち引退した。
1925年(大正14年)11月、東京・大阪角力協会合併の準備として合同番付編成のため、資格審査の第一回東西連盟相撲(前半)を京都で開催。翌1926年(大正15年)3月、第一回後半が大阪で開催され、同年7月東京・大阪両協会は解散、大日本角力協會が設立された。
大坂相撲最後の本場所となった1926年1月場所は、当時日本の領土となっていた台湾の台北市で興行したが、番付には興行地は記載されなかった。

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2009年04月03日 09:39に投稿されたエントリーのページです。

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